「Cogito Ergo Sum=コギト・エルゴ・スム」(我考える、故に我あり)
今、巷ではインフルエンザがはやっているそうですが、皆さんのお体の調子はいかがでしょうか?私は大変悪いです。普段からの不摂生がたたったか、風邪がぜんぜん治りません。小学生だったころ、6年間で100日以上学校を病欠し、「ガラスの貴公子」と呼ばれたわたくしは身も心もあのころのままです。しんどくても仕事は休めないので、早く治そうと付知峡に伝わる民間療法「メンソールタバコ馬鹿吸い咽喉療法」や、S井家130年伝承「アルコールうがい喉殺菌法」などを日夜欠かさずやっております。(S井家130年伝承「アルコールうがい喉殺菌法」は選ばれし家系にのみ効果のある治療法です。一般の方々には、一歩間違えると病を悪化させるだけではなく、肝機能障害、急性アルコール中毒、アルコール依存症などを誘発する恐れがある諸刃の剣ですので決してまねはしないでください)
さて、今回の天声珍語は哲学的な話題でございます。最近「自分が自分であることを規定しているものって何だろう」などとふと考えたりしてしまうわたくしであります。かのデカルトは方法的懐疑を用いてあらゆる物事を疑い、その存在を否定していった結果、疑い考え悩んでいる自己の存在だけは確かであることを発見しました。人間は思い、考えることにより己が存在を確認することができるのではないでしょうか。
しかし、われわれは考えているのでしょうか?ある行動をとるとき、何かしらの考えによって結論を出しているでしょうか?買い物をするとき、ご飯を食べに行くとき、その1球を撞くとき、多くの場合深い思考はなく、ただなんとなく行動しているのではないでしょうか。行動こそが、人間の唯一の思考の表現方法であるとしたら、その浅はかな行動は人間の存在価値をなんと軽いものしていることでしょう。とはいえ、わたくしごとき凡人は常に考えるなどということができるはずもなく、ただ目の前を時が過ぎていくのを愚かに傍観している日常でございます。逆説的に言えば、その愚かさこそ人間を愛すべきものにしているともいえるのです。
けれどもここに許されざるべき資本主義の問題が発生しております。わたくしのような深い思考なしに行動を選択する一般市民を誘導することをお金にしようとする者たちがいるということなのです。
先日あった節分ですが、皆さん「節分」と言えばなにを思い起こされるでしょう?やはり豆まきではないでしょうか。
ある家族の肖像(豆まき編)
中島家家族構成
子供(泰彦6歳。4月から南セントレア小学校に通う)
父(伸男39歳。中堅鉄鋼商社勤務)
母(あき子34歳。主婦業の傍ら在宅でデザイン関係の仕事をしている)
中島家では豆をまく泰彦が「鬼は外、福は内!」と言いながら鬼に豆をぶつけ、鬼のお面をかぶった父、伸男は「泰彦にはかなわないや〜!」と叫びつつ玄関から出て行く。あき子の「泰彦、鬼さん出て行っちゃたよ〜」の声に泰彦は満足げだ。伸男は外に出た瞬間の寒さに一瞬身をブルッと振るわせつつも穏やかな表情をお面の下からのぞかせ、「泰彦もこんなに強く豆が投げれるようになったのか。将来は野球選手かな。」とつぶやく独り言の息も白かった・・・。
なんて幸せなワンシーンでしょう。ところがどうですか最近は!2,3年前まで聞いたこともなかった恵方寿司とか丸かぶり寿司っていうんですか、あれ。なんか「これを節分に食べるのが時代のコンセンサス」てな感じでコンビニ店内ビラ貼りまくり!コンビニ業界の「炒った豆なんか売ったって金にならん!どうせなら、3人家族に3本、巻き寿司でも食わせたれ!」という考えが見え見えです。
おかげでこの中島家はどうなったでしょうか?
ある家族の肖像(丸かぶり寿司編)
母あき子は夫と息子に今日コンビニで広告を見てなんとなく買ってきた3本の恵方寿司を渡した。「南南西のほうを見ながら、黙って丸ごと1本食べきると幸せになるのよ。」そう言いながら自分の分の恵方寿司に目を落とした。(このお寿司、なんて黒くて、太くて、大きくって。あぁ、これを大きく口をあけてかぶりつけだなんて・・・そういえば、広告代理店の鈴木さん、今度いつ会えるのかしら・・・泰彦が小学校に上がったら、もっとこの家でも会えるわね。ホテル代だって馬鹿になんないし・・・)2ヵ月後からの自分と仕事を通じて知り合った男、鈴木の関係の想像・・・それを突然息子の声がかき消した。「お母さん、大きすぎて食べきれないよ〜」「馬鹿!やすひこ!黙って食べきりなさいって言ったでしょ!幸せが逃げちゃったじゃないの!」「泰彦!6歳にもなってこれくらい食べ切れないとは、お父さん情けないぞ!」「え〜ん、だっておおきいんだもん〜」
これでは子供は顎関節症になり、さらに7年後には非行に走り、一家はバラバラ。幸せな家庭は、もろくも崩壊でしょう。
序論が長くなりすぎてしまいました。本論に入りたいと思います。ここまでで、われわれの「なんとなく行動」がいかに資本主義の中で利用され、不幸な結果を生んでいるかは、お分かりいただけたのではないでしょうか。われわれが地に足をつけ、自分の幸せ、つまり人生の意味を見つけるためには、ときに立ち止まり、考えて行動する必要があるのです。自分が自分である、それはイコール自分で考え自分の行動を決めるということなのです。周りの偽りの情報に流されず、自らが決めた道を歩む。それこそが自分を探す終わりなき旅なのです。ここまで言えばお分かりでしょうが、もうすぐ製菓業界に仕組まれたあの日がやってまいります。
そうです!現代のセカンドインパクト、第二のカップリング記念日となっている2月14日です!!!西洋では、婚姻の禁止に反対し、死刑になった聖バレンタインをしのび、永遠の愛を約束するもの同士贈り物をするという風習が、またもやこの国では菓子屋に大きく捻じ曲げられ、非モテ大虐殺の日となっております。この国にはもう人を思いやり愛する心は失われてしまったのでしょうか!!!
「しまったわ。私、ぜんぜん知らないで、深く考えもせず三越でゴディバを買ってしまったわ。なんて浅はかだったんでしょう私・・・どうしたらいいのS井さん!」そうです、ゴディバなんてもってのほか。ゴンチャロフ、明治、風月堂にいたるまでこの時期にきれいにパッケージングされた菓子を買うことは自分が自分であることをやめること、神への冒涜、罪深きことなのです。
しかし、罪を罪であると気づいたとき、初めてその人に正しい道が開かれるということも忘れてはなりません。これこそは浄土真宗の開祖、親鸞の言った「悪人正機」というものなのです。真実を求めるあなたには、常に門は開かれているのです(Five&Halfの)。
というわけで、2月14日は当店にてわたくしが直々に菓子をお預かりいたしました上、わたくしが罪をかぶり、皆様の免罪を祈願いたします。たとえこの身がインシュリンづけになろうとも・・・
(もし、これで何ももらえなかったら、わたくしはその夜、病床の身に鞭打って「名古屋の中心で愛を叫ぶ(具体的には東新町で浜省)」ことになるでしょう)